ブログ

むらたえりこです。

🦕🦕🦕みんなの交換日記はこちら🦕🦕🦕


書く必要のないことを書いてみた

最近ブログ書いてないなって思うのも思われるのもなんかあれなんですが、しょうもない日記みたいなことはやりたくないんですよ。彼氏と映画見に行ったとかそういうのはね。んで今日は彼氏とヴェノム見てきた。

 

最近アメリカは映画よりドラマが盛り上がってるみたいで、ドラマのノリで二時間弱の映画作っちゃった感じでした。あんまり入り込めなくて二番煎じをもう2回くらい煎じた感じでしたなんだか映画館が寒くて、ずっとトイレに行きたいなって思ってたからあんまり入り込めなかったのかも。いや、ぜったいそのせいだよね。バルト9の空調、ゆるせない。

 

ほいで言いたいことはそんくらいですね。

 

昨日割と早く寝たんですけど陽当たりが良すぎて7時半に目が覚めて2時間くらい広告で出てきた漫画をケータイで見て、割と大きめの音でスピッツを聴きながら寝て、起きたら13時半でした割とやってしまった!って感じでした。今日は休みでした。

もうそろそろ家が寒くなる時期です。てかもうすでに寒い。

今までは電気ケトルの蓋を開けっぱなしにして加湿していましたが、加熱式の加湿器を買おうと思う。

今日、嫌なことは特になかったです。映画に行く前に博多華丸・大吉のラジオ聴きながらちょっと片付けて、洗濯物干して、髪巻いて家出たくらいなんで、平和そのものですわ。

 

おやすみんしゃい。

 

f:id:echp:20181103012854j:plain

自己責任について考えて書いてみた

 

 外国の人には自己責任にはなかなか伝わりにくいとかなんとか聞くけど。それはセルフレスポンサビリティーではなくて。

人には誰でも他人を巻き込んで生きていく運命と、責任があると思う。これを自己責任だとわたしは思う。みんなが思う自己責任とかちょっと違うかも。自業自得みたいなことではなくて。みんなが自分の運命を人に狂わされ、狂わしてしまう可能性を持って生きている。これを狂わされたくないのであれば自分を守る戦略や武器が必要になってくる。生きたくない場所に行かないとかやりたくない仕事は気を抜いてやるとか。

 

他人に悪く運命を狂わされたからと言って、相手に怒りをあらわにするのは絶対に間違えていると思う。それはもちろんケースバイケース。この世に暴力や盗みが存在しないことを仮定して。

 

どうしてそういう風に考えているかというと今日は母とプロレスを見に行った。そこでお客さん同士のトラブルがあったから。それについて考えていたら図らずして流行りの自己責任という言葉にたどりついたわけである。

 

わたしは怒っていますという態度はその先何も生まない。どれくらい怒っているかというのは相手には関係ない。怒っている人に聞く耳がなければわたしは怒っている人をな「なぜこんなに怒っているんだろう、きっと愛を知らないんだ、それはとても悲しいことだ。」と、そういう風にしてしまった世界に涙するほかない。悔しいから。

 

怒る以外に方法はある。お金を払ったり、代わりに何かしてあげたり。許しを請うてるのではなくてお互いが気持ちよく終われるように。世界は愛でできているから。今この小さな争いが戦争を生んでいたり、驚異的な武器を作る理由になっているかもしれない。

 

自分が生きているということ"自己責任"が集まり、世間というものや集団というものができていると思う。どちらが良いか悪いかを相手に認めさせる議論をする前にどうしてそうなのかと、今この目の前の問題がどうしたら解決するかを考えるべきだ。ナンセンスな議論をして己のプライドや懐の小さきことを大きな声で世の中に伝えてどうするというのだろうか。怒ることは疲れてしまう。疲れると全てがダメになる。自分の言葉には何の力もないし、自分は何者でもないことを皆忘れてはいけない。

 

今話題のみんなが言う自己責任という言葉については、言葉の認識の差ということと、心の腐り具合が問題だと思う。自己責任という言葉に責任はない。酷いことを言う人って大体何も考えてないか、知識がないだけなんだ。知識とはなにも学力ということではなく、知識が乏しく愛情や慈しむ心を使う術を知らないのだ。

ジャーナリストはすごい。ジャーナリストだけではなく、人のためになることができる人はみんなすごい。どこかのお母さんやお父さん、どこかの店長さん、ビルの管理人さん、旅行の計画を立ててくれる恋人も、これを読んでいるあなたも、間違いなくみんなみんなすごい。人のためだってやることが例え自分のためであってもすごい。

 

個として、人間として、地球人として生きていくことが必要なんだ。

 

まとまりがなくなってしまったけど、怒っているからといって第三者のたのしみを奪う権利はお前らにはない。と、言いたい。

 

 

帰りは水道橋から新宿まで歩いた。

新宿駅で知らない女の人に声をかけられた。

「今からシメでラーメン食べられるところはありますか?」と。

あそこにラーメンありますよっていわゆるまじれすっていうんですかこういうのは、マジレスして世間話してバイバイした。宗教の勧誘とかだったんかな、もしかしたら本当に寂しくて本当に困ってたのかもしれない。ちょっときになっている。

どうかお元気で。

 

f:id:echp:20181027023144j:plain

今日というコスモについて書いてみた

 

今日は朝早く起きて、洗濯物を回し、食器を洗って、洗濯を干して、もう一回洗濯を回して、リビングを掃除して、洗濯をもう一回回した。

幸せというのはこういうところにもたくさんある。洗濯物の角をピンとするようにたたんだり、流しをピカピカにしたり、クイックルワイパーについたゴミを眺めるのだって、わたしにゃ宝石と同じくらいの価値がある。だーからわたしは死ぬまで宝石屋さん行かないんだもんね。自分では買わないもーん。高いものなんてプレゼントされても嬉しくないよ!

 

今日は携帯を格安SIMに変えようとして、いろんな説明をうけたり知らない人の顔をじっと見たりして疲れた〜結局わからなかったし。彼氏に相談したら今日の夜うちに来てやってくれると言ってたので任せることにしてバイトに行った。最初は中をやったので沖さんが魚をさばいているところを近くで見てたりした。魚は鱗がキラキラしていたり、グレーに光ってたり、赤色だったりする。そしてお腹を開いてみると肋のところがなぜが真珠みたいに七色に光ってたりした。人間にはこんなに綺麗なところがあるのかしら。不思議だわこんな形の違う生き物を同じところで暮らしているなんて。サバンナに行けばライオンとか象とかいるし、彼らは生きるか死ぬかっていうのをゲームじゃなくて、本当の本当にやっている。子孫を繁栄させるために。でも人間が勝手に言ってるだけでライオンにも花が綺麗だなって思う気持ちが普通にあるかもしれないしさ、象はアリの行列を避けて歩くっていうし。

考えれば考えるほど神秘的で、理解できない。美しすぎて悲しくなる。ライオンや象、クジラやオットセイやマナティーとかがこの世に存在していて、遠くから彼らの生きることの邪魔をしているのかと思うとまた悲しくなってしまう。

 

ってことを沖さんがタイのカブトのうろこを取っているときに思った。食べられる植物にも、美しい草花にも同じようなことを思う。だからわたしは花がすきだ。

 

今日は本当にいい日だった。みんなが笑顔で、たのしそうで、わたしはうれしくなってしまって泣きそうになった。悲しいから泣くとか、嬉し泣きとかそういうことではなくて、温かい涙がじわっとしみてくる。この感覚が好きでまた涙が出てくるのだ。こんなんじゃ、追いつかないよ(嬉)!

 

おれはうれしい!!!生きているときの色がたくさんあって!!!

 

 

f:id:echp:20181025005327j:plain