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むらたえりこです。

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宇宙の藻屑、繊細と知識の共存

突然だけどみんな自分をなんだと思って生きてる?

 

この世の藻屑だと思って生きてるでしょ?だからぶつかりそうな場所の近くを歩くんだろうね。

私にもわかるよその気持ち。疲れてるんでしょ?疲れてると他人のことなんかどうでもいいっていうより、自分にバックしてくることくらいしか目がいかなくなる。優しくしてくれる人や気持ちよくなれることにあたたかさを感じ、満員電車では自分の場所だけ守ろうとするんだよね。自分が気持ちよくなることだけね守るんだよみんな。守らなくたってそんなもんいくらでもあるよお前らみたいなチビ脳、スカスカ心になら。インスタ映えでも、機材チュウ(キザイチュウ毒)でも心は満たされたとチビ脳は理解するんだ。アマチャンっていうのは理屈くさいのだ。下手なリクツ。

 

ところで、お店でご飯を食べた後に「おあいそお願いします」っていう人いるじゃない?あれは間違いなんだよね。オアイソって漢字に変換すると御愛想。お店の人が使う言葉なんだよ。「あそこのお客さんが愛想つかしてしまいました」=お会計っていうことだと何かで読んだ。

ハァー最悪。こんな知識なければわたしは今後のあと50年くらい続くであろう人生、他人の口から出る「オアイソ」にイライラしなくて済んだのに。「オアイソ」ってなんだろう???っていうこの好奇心のおかげで毎回毎回こいつらみんな死んじまえって思わなちゃいけなくなってしまった。

中学の時の国語の先生が曖昧な知識は使い物になりませんと口を酸っぱくして言っていたが、毎度毎度世の中を恨むような知識は欲しくなかった。せ生きやすくしたいし、他人をや世の中に呪いをかけるような気持ちなんてあるだけ、そのぶん疲れるだけだ。

 

だからいろんなことを知ることやわかることなんてこの体には合わないから本当はいらない。自分のことを自分で繊細というのは変だけど違う。わたしの心と脳みそはきっと少し、いやだいぶ違う素材でできている。こころと体を切り離して言うから誤解しないで欲しい。わたしにナルシシズムなんて似合わん。わたしは自分の心臓の近くにある心のことを繊細だと思う。

この繊細さをまもるために暴言を吐いて取り繕わなきゃいけなかったりする。

オアイソのことも、みんなが自分のことを藻屑だと思って生きていることも知ったらつらい。

「どうして藻屑たちは自分のことを藻屑だと思っているのか?」

「わたしには理解できない。」

「でも運と考えればわからないことなんてないはず。」

「理解なんてわかった気になっているだけだから、せめてその上を愛情や温かい気持ちで塗りつぶしてあげたい。」

「でも藻屑たちには愛せいる余白すらない。」

「見ず知らずの人のことなんか愛さなくていいとみんなは言うんだろう。自分でも少しそう思う。」

「わかる、わかっているはずなのにできない。あいつらのことをどうでもいいと枠の外へ囲み直してやればいいのに。」

「それができればいいのに。」

「どうしてできないんだろう。」

「繊細さがいつも邪魔をするね。どうしたら捨てられるのか、とても知りたい。本当に知りたい。強くなれる薬があれば毎日飲みたい。幸せになんかならなくてもいい。強くなりたい。強い心で何も気にならないように人にだけ暖かくいられたらいいのに。」

 

いつも自分の中の大勢と会話をする。

繊細さと知識はうまくいかない。

 

人は皆宇宙の藻屑であり、自分というオリジナルであることの個性の中で精一杯でいなきゃいけない。精一杯さをセーブしながらやる精一杯だってある。みんな自分と人のことをちょうどいいバランスで考えなきゃいけない。あなたは藻屑でもほかの藻屑のことを傷つける可能性があって、それは度々最悪の事態になりうることだってあるのさ。火花から大火事になることだって、世の中にはあるのでしょう?ちょっとしたことで恋人と別れの挨拶をしなくてはいけないことだってあるんだ。

 

人に傷つく権利はないし、人を傷つける権利もない。両方ともあってはいけない。もちろん全ての人がその権利を好きなときに使うことはできないかもしれないけど、謙虚に。その権利を振りかざしてはいけない。

権威が大好きなみんなに注ぐ。愛せないよ。