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むらたえりこです。

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自己責任について考えて書いてみた

 

 外国の人には自己責任にはなかなか伝わりにくいとかなんとか聞くけど。それはセルフレスポンサビリティーではなくて。

人には誰でも他人を巻き込んで生きていく運命と、責任があると思う。これを自己責任だとわたしは思う。みんなが思う自己責任とかちょっと違うかも。自業自得みたいなことではなくて。みんなが自分の運命を人に狂わされ、狂わしてしまう可能性を持って生きている。これを狂わされたくないのであれば自分を守る戦略や武器が必要になってくる。生きたくない場所に行かないとかやりたくない仕事は気を抜いてやるとか。

 

他人に悪く運命を狂わされたからと言って、相手に怒りをあらわにするのは絶対に間違えていると思う。それはもちろんケースバイケース。この世に暴力や盗みが存在しないことを仮定して。

 

どうしてそういう風に考えているかというと今日は母とプロレスを見に行った。そこでお客さん同士のトラブルがあったから。それについて考えていたら図らずして流行りの自己責任という言葉にたどりついたわけである。

 

わたしは怒っていますという態度はその先何も生まない。どれくらい怒っているかというのは相手には関係ない。怒っている人に聞く耳がなければわたしは怒っている人をな「なぜこんなに怒っているんだろう、きっと愛を知らないんだ、それはとても悲しいことだ。」と、そういう風にしてしまった世界に涙するほかない。悔しいから。

 

怒る以外に方法はある。お金を払ったり、代わりに何かしてあげたり。許しを請うてるのではなくてお互いが気持ちよく終われるように。世界は愛でできているから。今この小さな争いが戦争を生んでいたり、驚異的な武器を作る理由になっているかもしれない。

 

自分が生きているということ"自己責任"が集まり、世間というものや集団というものができていると思う。どちらが良いか悪いかを相手に認めさせる議論をする前にどうしてそうなのかと、今この目の前の問題がどうしたら解決するかを考えるべきだ。ナンセンスな議論をして己のプライドや懐の小さきことを大きな声で世の中に伝えてどうするというのだろうか。怒ることは疲れてしまう。疲れると全てがダメになる。自分の言葉には何の力もないし、自分は何者でもないことを皆忘れてはいけない。

 

今話題のみんなが言う自己責任という言葉については、言葉の認識の差ということと、心の腐り具合が問題だと思う。自己責任という言葉に責任はない。酷いことを言う人って大体何も考えてないか、知識がないだけなんだ。知識とはなにも学力ということではなく、知識が乏しく愛情や慈しむ心を使う術を知らないのだ。

ジャーナリストはすごい。ジャーナリストだけではなく、人のためになることができる人はみんなすごい。どこかのお母さんやお父さん、どこかの店長さん、ビルの管理人さん、旅行の計画を立ててくれる恋人も、これを読んでいるあなたも、間違いなくみんなみんなすごい。人のためだってやることが例え自分のためであってもすごい。

 

個として、人間として、地球人として生きていくことが必要なんだ。

 

まとまりがなくなってしまったけど、怒っているからといって第三者のたのしみを奪う権利はお前らにはない。と、言いたい。

 

 

帰りは水道橋から新宿まで歩いた。

新宿駅で知らない女の人に声をかけられた。

「今からシメでラーメン食べられるところはありますか?」と。

あそこにラーメンありますよっていわゆるまじれすっていうんですかこういうのは、マジレスして世間話してバイバイした。宗教の勧誘とかだったんかな、もしかしたら本当に寂しくて本当に困ってたのかもしれない。ちょっときになっている。

どうかお元気で。

 

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