写真に関してはそこに写っているものがそれで全てだし、その写真の中の世界が全ての正解だと思う。
写真はその浅い歴史をなぞりながら、今の時代にある写真が見られればおもしろさ倍増って感じなんだから、意味とか"ふぁいんあーと?"的な目線はちょっとまた違う畑の話だ。
人間関係なんかは、今そこにあったり、自分が抱えている関係がそれで全てだけれどただ、人間関係は多様だから合わないのなら、それはやめればいい。
全てを受け入れようとか、よくないといけないとかそういうの辞めちまえばいいのよ。
好きなものを好きでいる心みたいなものを大切にしていればいろいろなことの答えはシンプルに出て来ると思うんだけどねえ、ボカァね。
どうしてか、とういうかまあなんとなく理由はわかるんだけど、みんな正解を求めてしまう。
これはどうして撮ったの?
何が写ってるの?
どうしてその人と居るの?
どういう関係なの?
うんうん、わかるわかる。
私もそういう質問するし、したいもんね。
もちろん正解がわかってるからこそ進めやすい話も、仕事も、関係もそれはそれはたくさんある。
かーーーっ!でもうるせえ!やっぱりうるせえ!
例えていうなら、挨拶って相手に聞こえないと挨拶とは言わないっていうよね。
でも挨拶したしって片方は思ってるし、もう片方は聞こえなかったって思ってる。
前者の声が小さかったのか、後者の耳が悪かったのかなんてだーれにもわからないんだからもう正解なんてどこにもない。
大切なことは全部幼稚園や小学校の低学年で教わっているはず。
なにかをつくったり、何かをやって行くことだってそんな高貴な孤高なことじゃないのよ。
でも今はみんな憧れの世代だから、絵、写真、映像、アートみたいなもの。イケメンな恋人、かわいい恋人、うっとりするような恋愛、羨ましがられるような日常の生活とか。
全部に憧れの眼差しを送ってしまって、憧れる人(でも、その憧れにはなれない賢い人)がその憧れに自分もなろうとしてしまう。
そうする憧れの眼差しなんて向けられなくてもいいものがどんどん本来の姿から遠くなっていき、本質(なんてないと思うけど、なにかふわっとある芯のようなもの)がなくなって言ってしまうのだ。
正解なんて自分の中にしかないし、わたしはあなたが正解だと思ったものを見たい。聞きたい。教えてほしい。
もし誰かの回答がわたしの正解と合わなくても、わたしは受け入れたい。
それがその人の嘘一滴もない正解ならそれを大切にしたい。
中身なんかどうだっていい。
合うか合わないかで、狭くなりたくない。
もっといろんな目を持って人やものをできるだけたくさん好きでいたい。
製作も生活も答え合わせじゃない。
何にでも、思いやりとか愛とか真心を持って、
面倒がるのではなくて面倒をかけてあげて。
手間がかかるのではなくて、手間をかけてあげて。
何にでもそうしろって言ってるんじゃないの、好きなものには精一杯面倒と手間をかけて。
思いやりとか愛とか真心とか古臭いけど、そういうことを受け入れると随分楽になるのよ。
ほら、もう近い家族や、友達の誕生日について思ってみてよ。
ね!、その気持ち忘れないで!