男の子もそうだけど新しいものは良い。
やっぱり戻りたくない。
振り返るのが、一番面倒なのだ。おもしろくないのだ。
止まってしまうのが一番しょうもないのだ。
わたしは何かにならなくてはいけない。
何かになり続けているんだけれども。
思い立って竹下通りを歩いてみる。
消費に消費を重ねて出来上がっているように見える
紙のタワーをたかーく積み上げたように軽い。
有名な洋服のブランドまがいのものやキャラクター。またはキャラクターのような女の子。雑誌から切り取ったような束感のある髪の毛の男の子。そんなものばかり見える。
偽物で出来上がった通りはそれはもう本物みたいだった。
ただ、その中を歩いてみてもああ、自分は本物だ。と思えるわけでもなく、竹下通りをくぐり抜ける前と後で何も変わっていないわたしが明治通りに降り立ったのみである。
気分は外国から来た観光客のようだった。
ナーンダ、タイシタコトナカッタ!スガモイズアメイジングダッタ!
そうそこでわたしの本職?(もう危うい)である写真なんてもちろん撮らなかった。
写真を始めたばっかりの時みたいに頑張って写真なんて撮るものじゃない。
これをとったら面白そうだな、なんて興奮した犬みたいにバカバカ尻尾を振って撮るような写真はおもしろくない。今のわたしには。
(ちなみにわたしはワンちゃん大好きだよ。あのバカみたいに全身で喜びを表す生き物、他にはいないもの。わたしもああいたい。)
学校の同窓会に行って2000円を払ったことも、竹下通りを通ったことも、写真には残っていないから、事実的証拠がない。
写っている。
撮った。
という事実がない。
ハ!そうか、そうか今どうしてわたしが写真を取れないのかわかった。
その状況が確かにそこにあった。という証拠が今はどうしてか必要ないんだ、
文章なんていくらでも嘘を本当にあったみたいに書くことができる。(わたしの分はノンフィクションよ。)
わたしがガバガバ写真を撮っていたときのことを思い出す。
そうだ、誰かのことが好きで、その時間が愛おしくてたまらなかったんだ。
外界に興味がないと写真なんてできない。
いま、わたし以外の世界には誰も居ない。
まだいらないのかもしれない。
わたしは人のことを好きじゃなくなるとき何かと理由をつけて相手のせいにしていたけれど、わたしは何かやってる人が好きだったからだ。
何か諦め、そこから落ちている人に用はなかった。
こうやって毎日色々なことが色々な様にわかってくるけれどきっと自分の中の「なんで?なんで!?」という気持ちやそういう部分は消えないだろう。
そういうところを残しておきたいと思うし。
ねっ。
あ、そういえば会費2000円の同窓会に出て1000円の本を3冊売って来たんだった。
お茶でもしながらバイトのシフトを考えよう。